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「老人があった」・・・なぜだーー?

Mikawa Ossan

いかんわ!
17 Sep 2005
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今日、司馬遼太郎作の「梟の城」を開いたところ、次の 文書を見て不思議に思いました。
落ちなずむ陽が近江の空を鮮々と染めはじめたその夕、茜雲の下の峠みちを、這うようにしてのぼってゆく老 人があった。
前から気づいたことですが、時々人を対象に「ある」を 使うこともあるようですが、「いる」や「おる」など口 語で普通に使う言葉と、この場合の「ある」の用法に何 が違うのでしょうか。ニュアンスが違うとすると、これ を聞くとどんな印象が与えられますか?お願いします。
 
この一節は風景を描写しているので、ここでの「老人」 はまだ物語の登場人物としてではなく、その風景の一部 として扱われているということではないでしょうか。 (老人の)姿があった という表現はよく耳にしますよね。 それと同 じニュアンスだと思います。
 
なるほどですね。つまり、この時点でまだ物語の人物で はなく風景の一部に過ぎない存在だからですね。ありが とうございます!
 
「ある」を人物に使うのは格調高い、というのでもない けれど、昔風の表現というか、古典の響きを感じますね 。
竹取物語の冒頭、「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり 」なんていうのが浮かんで。
 
なるほど!納得です。手元に「竹取物語」はありませんが、「伊勢物語」にもその表現をよく使いますね。
「むかし、をとこありけり」

時代小説をよく書いていた司馬遼太郎にはふさわしいですね。

ありがとうございます!
 
「ある」を人物に使うのは格調高い、というのでもない けれど、昔風の表現というか、古典の響きを感じますね 。
竹取物語の冒頭、「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり 」なんていうのが浮かんで。

この一節は風景を描写しているので、ここでの「老人」 はまだ物語の登場人物としてではなく、その風景の一部 として扱われているということではないでしょうか。 (老人の)姿があった という表現はよく耳にしますよ ね。 それと同 じニュアンスだと思います。

お二人の仰るとおりだと思います。



"落ちなずむ陽が近江の空を鮮々と染めはじめたその夕、茜雲の下の峠みちを、這うようにしてのぼってゆく老 人があった。"

"落ちなずむ陽が近江の空を鮮々と染めはじめたその夕、茜雲の下の峠みちを、這うようにしてのぼってゆく老 人がいた。"

這うようにしてのぼってゆく影があった。
這うようにしてのぼってゆく老人の姿があった。

這うようにしてのぼってゆく老 人がいた。
這うようにしてのぼってゆく老人があった。

座敷牢の中に一人の老人の姿があった。
座敷牢の中に一人の老人があった。

正直に白状させていただくと私には殆ど問題の文での" いた"と"あった"の違いがわからないのですが(同時 にあまり気にしないのですが)、小説等では其れ其のも のを描写するよりも視覚的な情景描写を使って、間接的 に読者に言わんとする所を察してもらったり、段階的に 少しずつ情報を与えるような描写が手法として使われる 事があります。

ですから、"這うようにしてのぼってゆく老人の姿があ った。"

などの表現は、場合によっては"飽くまで老人が居るこ と"断言しているのではなく、そう見えるものがある事 を述べていることもあります。(一方"老人が居た"と 書かれていても、それが登場人物の主観である可能性も あるわけですが。)

さておき 「竹取の翁といふ者ありけり」は断定的で簡 潔な表現です(間違っていたらお教えください)。です から、この場合

「落ちなずむ陽が近江の空を鮮々と染めはじめたその夕、茜雲の下の峠みちを、這うようにしてのぼってゆく老 人があった。」

は「老 人に見える影があった。」、「(簡潔で断定的に)老 人がいた。」 又はそのどちらでもない曖昧なな表現と 解釈の選択肢が三つあります。

私の個人的な推測としては、「這うようにしてのぼって ゆく老人の姿があった。」を短縮したものが、音的に「 ありけり」似ていて良かったので著者が良しとしたので はないかと思うのですが、皆さんどうお考えでしょう?

或いは、意図的に曖昧なな表現として使われたのか、私 が知らないうちに日本語そのものが変化したのか・・・ 。
 
Green Catさん、 丁寧に説明してくださって、ありがとうございます!
 
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